言語の正しさと、
その内容の豊かさは直接的には関係がない。
どんなに正しく美しい日本語でも、
中身がければ、それは取るに足らないものだ。
だから子供たちの発する言葉は、
まずとにかくすべて受け止めてあげたいと思う。
正しいか正しくないかは、
あとで子供たち一人ひとりが
自分たちの力で考えればいいことだ。
これがたとえ…
他人を傷つけるような言葉であっても、
そのことも一緒に考えていけばいい。
他人を傷つけたり、傷つけられたり、
あるいは自分の想いが他人にまったく通じない
という経験を通してのみ、子供たちは
コミュニケーションの技術を学んでいくのだ。
そのときにこそ、
はじめて私たち芸術家が積み上げた
言葉に対する蓄積が、少しだけ人々の役に立つ。
人は、たとえば誰かを好きになったときに、
その言うに言われぬ気持ちを言葉に託したくて
はじめて詩を読むものだ。
あるいは、愛する者を失った悲しみを、
そのままにはどうしてもしておけなくて、
小説を読んだり芝居を見たりして、
その気持ちを表すのに、
何かぴったりの言葉や表現を見つけて、
かろうじて精神の均衡を保つのだ。
二一世紀のコミュニケーション(伝達)は、
「伝わらない」ということから始まる。
この連載で何度も繰り返してきたように、
対話の出発点は、ここにしかない。
私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を示しているということ。
私は、あなたが分からないということ。
私が大事にしていることを、
あなたも大事にしてくれている
とは限らないということ。
そして、それでも私たちは、
理解し合える部分を少しずつ増やし、広げて、
ひとつの社会のなかで
生きていかなければならないということ。
そしてさらに、
そのことは決して苦痛なことではなく、
差異のなかに喜びを見いだす方法もきっとある
ということ。
乱れ、揺れ、壊れ、
言葉はどんどんと変わっていく。
その変わっていくことを恐れてはならないし、
否定しても意味がない。
美しい言葉、正しい言葉が、
あらかじめどこかにあるのではない。
それらは言葉の変化のなかで…少しずつ…
私たち自身の内側から見つかっていくものだ。
まず話し始めよう。
そして、自分と他者との差異を見つけよう。
差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、
二一世紀の対話が開けていく。
0 件のコメント:
コメントを投稿